DeSoto CLOTHING COMPANY

COLUMN

new era

2019 / 05 / 02  15:19
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新元号「令和」へと成り、この新時代という響きに心が弾む。
当たり前に外吹く風すら何故だか新鮮に思えるような、そんな特別な時間の移り変わりを肌で感じた此の頃。

 

 


ある陶芸作品を来月あたりに紹介します。
これにはただ「陶器の販売をスタートします」という事以上の思い入れがあります。

雑然とした価値観が渦巻くこのファッションという世界において、
また価値基準が刹那に変化していく時代の中で、
より意義ある価値観の提案が必要だと思うのです。
圧倒的な情報量と技術的な進化がもたらした現代の怠惰なファッション・アパレル業界では、
モノとしての「物質的」な価値が不明瞭になる要素に溢れています。
いうなれば物質的には類似品や精密なレプリカがいくらでも作れてしまうというような事。

そういった今日び、何に価値を見出してモノを選択していくのか。という事を改めて考えたいのです。

陶器や絵画のような芸術的要素を持つモノの、表現に内在している美。
物体が完成するまでのプロセス、つまり「デザイン」という思考自体の中に価値を見出す。
そこには心理に働きかけてくる何か、心を豊かにしてくれる何かが確かに存在するのです。
今回の陶芸作品が、そういった事を考える一つのきっかけになればと。


この陶芸家は、オーストリア出身。
細菌学者の両親のもと、ウィーンに生まれ、ニューヨークのパーソンズにて陶芸の基礎を学んだ後、
日本に渡り陶芸家2人に師事。その後、中国・中東の陶磁器にも触れ、
現在はオーストラリアに築窯し、作陶している。
理論面でバウハウスに影響を受けていたり
様々なジャンルからのインスピレーションと修行を重ねて生み出している彼の作品群には、
他に無い独創的なデザインと造形美・心理的な表現を感じる事ができる。
表面的な作品のテイストは違えど、あのルーシーリーとどこか重なる部分が垣間見えたりもするのです。

「デザイン」や「思想」を深掘りして、様々な事がリンクしていく過程や
理論が自分の中で腑に落ちる瞬間に頷いたり。
そういった、より深いところでの楽しみ方ができたら良いなと思います。
洋服やバッグ、靴、ジュエリー、フレグランスなど
ファッションという大きな括りの中での、同じ延長線上で陶器も手にしてほしいと考えているのです。
裏を返せば、芸術的目線で洋服や靴も同じように見れると価値基準の幅が広がるなと。

あらゆるジャンルの壁を取り払い、一つの審美眼と一つの土俵の上であらゆるモノを見る事で
さらなる感性が高まるような、新しいセンスやファッションが生まれる気がします。

疑問と追及。
新時代、楽しんでいきましょう。

 


作品紹介は、来月あたりにCLOTHINGのほうで。
お楽しみに。

 

NAPOLI

2018 / 07 / 10  17:31
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ナポリのサルトにDeSoto Modelとして製作してもらった手縫いジャケット、
今回は既に完売しています。
また作るので買い逃した方は是非、次の機会に。

今日はナポリジャケットについて少し。
もともとはスミズーラといって英国で言う所のビスポーク、客と話しながら体を採寸し、そのたった一人のために好みの1着を仕上げる事を信仰としています。
今季DeSto Modelの製作を依頼したサルトも同様。
物心ついたころから針を手に、生き抜く術として技術を身に付けた生粋の職人たちが一針一針時間をかけて仕立てたモノ。

彼らが仕立てた服には手縫いがゆえの不完全さがあります。
マシンを用いて生産効率を高めた廉価版ナポリジャケットでは出せない味がある。
その不完全さは決して欠点ではなく、むしろ長所。
1着1着同じモノが仕上がる事は無いし、
職人の上機嫌も不機嫌も全て含めて、
一人の人生の50時間〜60時間を背負っているという事。
大量生産された服は何も語らないけど、
サルトリアの洋服には心がある。
職人のエネルギーが服に宿っているのです。

DeSoto Modelのジャケットはお客様からすると既製服という事になりますが、
私の立場から言わせてもらうと、
DeSotoの好みでDeSotoのためだけに全て手縫いで作られた紛れも無い本物のスミズーラジャケットです。
また良い生地探して作ってもらいますのでお楽しみに。

 


これも「高級」な世界ですね。



Artistic

2018 / 06 / 15  19:20
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最近、陶器を購入する機会が増えました。
年齢でしょうか?

個人的には「実用性のある芸術品」といった感じ。
実際食卓でも使えるし、棚に並んでるだけでもインテリアですよね。
モノによっては経年変化まで望めたり、作家の各々の作風や思想を楽しんだり。
最近はあらゆるモノに対してそういった芸術品としての見方に傾いてる気がします。

一線超えたところにいる人が人生を賭けて生み出したモノには、やはりアート的な要素がありますよね。

俗に芸術品と呼ばれるモノを購入する時、表に見えない部分にPAYする+αの部分があると思います。
作品を作った人のマインドであったり、センスであったり、人生そのものに惹かれたり。
そこを今とても重要視しています。

クラシックな世界でいうとナポリの丸縫い(全て手縫い)で仕立てられたジャケットや、一足一足、木型からたった一人のために作られるビスポークシューズなど、割と同じポジションで見れるんです。まさに実用性のある芸術品。
もしその製作者が死んでしまったらもう手に入らないモノ。
そういったモノ同士の組み合わせには何か不思議な要素が働き、ジャンルの垣根を超えて自然と調和する気がするのです。
ただ合うという感じではなくて、組み合わさった時に化学変化的な、高次元なセンスが生まれるというか。

ベタベタに当たり前な組み合わせも悪くはないけど、そこにはもう自分を高めてくれる新たな発見や刺激はありませんよね。


ファッション=ウェア。だけでなく、他分野からファッションに影響してくる感覚やセンスみたいなモノの重要性を意識していく必要があります。

それでは、今日はこの辺で。


Mercedes 190E

2018 / 06 / 12  18:07
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今日は、車について。
画像は自分が乗っている愛車「Mercedes Benz 190E」。
この車を初めて知ったのは、服業界の偉大な先輩がこの190Eに乗ってDeSotoを訪ねて来た時でした。
それまで、正直「ベンツ」には全く興味が無く、好きじゃないというよりかは何も知らない無知な状態。
"金持ちが乗るおきまりの車"みたいなイメージしか持っていませんでした。
が、その車を見た瞬間に「なんだこのセンスの良い車は!」と
一瞬にして現代の車にはないプレシャスを感じました。
パッと見の分かりやすい華やかさや高級感みたいなものではなくて、控えめの中にある本物感といいますか。
厚い鉄板で形成された端正なボディーライン、金庫の扉みたくズッシリと重量感のあるドア。
無駄の無いシンプルなグレートーンの内装に落ち着いた雰囲気のウッドパネル、時代を感じさせるチェックのファブリックシート。。。

それからというもの190Eが気になって気になって仕方なくなり、、、、、買いました。

この車をメルセデスが生み出した背景には世界を恐怖に陥れた第一次石油ショックが関係していて、
そうした背景の中でより良い車を作るべく試行錯誤して生み出した車なんだそう。
この車が80年代以降のメルセデスの土台となり多くのモデルへ反映されて行く事になるという、メルセデスの一時代を語る上で欠かせない特別な車なのです。
決して物作りをする上で有利な状況ではない時代に、
当時のメルセデスの社訓「最善か無か」という妥協なきモノ作りへの拘りを貫いた。
そして、その拘りが凝縮されたこの時代のメルセデスには現代の車が忘れてしまった何かが溢れまくっているというわけです。
妥協なき物作りは感動を生むって事ですね。何でも同じ。

直線的でデザイン性の高い美しいボディはイタリア人デザイナー「ブルーノ・サッコ」によるもの。
まさに乗っていると最善を尽くした完成度の高い車なんだと体感できます。デザイン性も実用性も。
乗れば乗るだけ惹かれていく。そんな車です。

純正のTechnicsのカセットデッキでJAZZを流しながら安全運転。
気持ちの余裕でしょうか。割り込みも気にならない。
ノスタルジーな内装とフロントガラス越しに見える景色はまさにプライスレス。

何気ない日常も特別な時間に変えていく。そんな作業が大事なのかもしれません。
今こうして記事を書いている間も、好きなジャズを聴き、好きな作家のカップでコーヒーを味わいながら、小指に光るお気に入りアーティストのゴールドリングに時々視線を落とす。
とても豊かな時間です。


一概に高級=高額ではないという事。
そして高級なモノを理解するには教育が必要という事。
そんな感じで今日は締めますか。

それでは、また。

 

LEICA

2018 / 06 / 11  17:26
LEICA

LEICA、良いですよね。

にわかカメラ好きが言うのもなんですが、本当に良い。
写真好きな人にもカメラ好きな人にも満足できるモノ。
コレは所有した人にのみ理解する事のできる満足感。
アンリ・カルティエ=ブレッソンやロバートフランク、ウィリアム・エグルストン、ソールライター、他にも多くの有名な写真家たちに愛用されてきた"Leica"。
先人たちはライカのファインダー越しにどういう想いを切り取ってきたのだろう。。。なんてカッコつけたりもできます。笑
それは冗談としても、Leicaには何か特別な感情を抱きます。
物理的に一流の精密機械を手に入れる喜びと、Leicaを〈所有する〉という喜びがある訳です。
何気ない日常もライカのファインダーを通すと、なぜだか特別。
結局は自己満の世界だと思うんです。
他人がどういう風に思おうと自分が良い写真だと思えばそれは紛れもない良い写真です。
依頼されて写真を撮る仕事をしている人は話は変わってくると思いますが、アート的な立ち位置で写真を撮るのであればそこはもう自己表現の世界。
私はカメラオタクではないし、初めはどちらかというとファッション的にライカに興味を持ったので、
各レンズによっての描写とかボケとか、細かいところまではハッキリ言って理解していません。
絞りやシャッター速度、ISO感度、なんですかそれ。。。
っというのはウソだけど、そういうのは一番重要な事ではないのかも。


先日、ライカを愛用する写真家、ソールライターのドキュメンタリー映画を見て、最後の最後に「美の追求」って言葉を言っていたんです。
この「美の追求」という言葉は人生のキーワードです。
好きなフォトグラファーの一人「ビル・カニンガム」、今は亡くなってしまいましたがこの方も自身のドキュメンタリー映画の中で同じ言葉を言っていました。
「美を追い求めるモノは、必ずや美を見出す」と。
美という、どこまでも抽象的で広範囲に及ぶ言葉ですので、ここで説明する事自体ナンセンス。
是非、映画を見てください。

脱線しましたが、
結局のところLeicaを推すのは、Leicaを使う事でしか得られない感性があるという事。
ただプライスが高いだけの精密機械ではないという事です。

私が所有しているのはLeica M240というデジタルのM型機種に1950年代製造ズミクロンの初期型を装着。
単純に物体としてカッコ良いですよね。
ボディーは真鍮製でその上からブラックペイントを施してあるので、永く使うとペイントが剥げて真鍮の地金が見えてくる。
真鍮製なので鉄の塊みたく重い。
この存在感がビューティフォー。

というわけで、いろんな分野で妥協のない美しいものに触れていきたい。
そして美しいものを美しいと理解できるよう自分を教育していきたいものです。


それでは、また。

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