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High culture.
先日、バレエダンサー 熊川哲也の自伝著書「完璧という領域」を読んだのですが、
すごく感じるモノがありました。
まさに完璧を追い求め続ける人にしか抱けない感情と、見えない景色がそこにあるなと。
体の柔らかさはもちろんのこと、体が完璧に左右対称であることや、
手足の長さ、バネや重心など、生まれながらの才を持ち合わせていなければ
どんなに努力を重ねようと絶対にトップに上り詰める事は不可能という残酷なバレエの世界において
常に一線を走り続けてきた熊川哲也。
まさに天才である彼の幼少期のバレエ人生から、
世界3大バレエ団の一つであるロイヤル・バレエ団でプリンシパルへと上り詰めたロンドン時代、
そして独立後、日本で自身のKバレエカンパニーを設立してからのストーリー。
全ての場面において「完璧」を追い求め続ける彼の姿勢とバレエ人生そのものに感動に値するものがありました。
なかでもKバレエカンパニー設立後、舞台上で彼の身に降りかかった大きな怪我とその後の場面。
圧倒的な才能が一瞬にして奪われたかのような、そんな絶望感を抱く彼が、
かつて聴力を失ってもなお譜面と向き合い続け、数々の名曲を後世に残した偉大な作曲家である、
ベートヴェンと自身を重ね合わせながら行った振り付け作業。
第九交響曲のオリジナルの楽譜を手に入れ、ベートーヴェンがその譜面に
どんな感情で一音一音を並べていったのか。
追求し、深い思考で解明しながら、その一音一音に振り付けを当てていった。
果てしないその作業と深い理解の中で彼は、ベートーヴェンに「会えた」のです。
同じ時代を生きているはずのない偉人に。
常人離れの卓越したスキルで人々を魅了し、
何不自由なく踊れていた頃にはおそらく抱けなかったであろう感性を
奇しくもこの怪我によって彼は手に入れることができたのです。
すごく高貴な話だと思いませんか。
ロバート・ヘンライの著書「アートスピリット」にも確か同じような事が書いてあったのを記憶しています。
幾多の一筆一筆の重なりで完成する一枚の絵画を見て、画家の心に浮かんだ事が伝わってくる。
描かれたたった一本の線から何かメッセージを受け取ることもあるのかもしれない。
画家がそこにいなくても、まるで対峙しているかのような感覚になることさえ出来るのです。
画家の一筆、音楽家の一音、バレエダンサーの一挙手一投足。
真の芸術は表面ではなく人の内面のずっと深いところに届くのです。
バレエや絵画など、俗にハイカルチャーと呼ばれる高貴な芸術から美を感じ取る想像力。
そういった感覚を養う事であらゆるモノから感動を得ることができます。
ファッションもきっと同じ。
考え抜かれた末に生み出された、ただ一つの「色」にも感動があるし、
表面的なデザインだけではなく、テクスチャーに、またその奥の思想にも。
一枚のカシミアセーターを見つめて、
代々受け継がれてきた遊牧民の手塩にかけて育てた山羊から紡ぎ出す
15ミクロンのたった一本のカシミア繊維にすら感動があるのです。
本質を見極める目と無限の想像力。
これがあればきっと人生は豊かになる。
はず。
"モノが美しいのではない。
人が美しいと思えば全ては美しい。"
ー ロバート・ヘンライ ー
そう。 美は私たちの中にあるのだと、最近ようやく気付きました。
new era
新元号「令和」へと成り、この新時代という響きに心が弾む。
当たり前に外吹く風すら何故だか新鮮に思えるような、そんな特別な時間の移り変わりを肌で感じた此の頃。
ある陶芸作品を来月あたりに紹介します。
これにはただ「陶器の販売をスタートします」という事以上の思い入れがあります。
雑然とした価値観が渦巻くこのファッションという世界において、
また価値基準が刹那に変化していく時代の中で、
より意義ある価値観の提案が必要だと思うのです。
圧倒的な情報量と技術的な進化がもたらした現代の怠惰なファッション・アパレル業界では、
モノとしての「物質的」な価値が不明瞭になる要素に溢れています。
いうなれば物質的には類似品や精密なレプリカがいくらでも作れてしまうというような事。
そういった今日び、何に価値を見出してモノを選択していくのか。という事を改めて考えたいのです。
陶器や絵画のような芸術的要素を持つモノの、表現に内在している美。
物体が完成するまでのプロセス、つまり「デザイン」という思考自体の中に価値を見出す。
そこには心理に働きかけてくる何か、心を豊かにしてくれる何かが確かに存在するのです。
今回の陶芸作品が、そういった事を考える一つのきっかけになればと。
この陶芸家は、オーストリア出身。
細菌学者の両親のもと、ウィーンに生まれ、ニューヨークのパーソンズにて陶芸の基礎を学んだ後、
日本に渡り陶芸家2人に師事。その後、中国・中東の陶磁器にも触れ、
現在はオーストラリアに築窯し、作陶している。
理論面でバウハウスに影響を受けていたり
様々なジャンルからのインスピレーションと修行を重ねて生み出している彼の作品群には、
他に無い独創的なデザインと造形美・心理的な表現を感じる事ができる。
表面的な作品のテイストは違えど、あのルーシーリーとどこか重なる部分が垣間見えたりもするのです。
「デザイン」や「思想」を深掘りして、様々な事がリンクしていく過程や
理論が自分の中で腑に落ちる瞬間に頷いたり。
そういった、より深いところでの楽しみ方ができたら良いなと思います。
洋服やバッグ、靴、ジュエリー、フレグランスなど
ファッションという大きな括りの中での、同じ延長線上で陶器も手にしてほしいと考えているのです。
裏を返せば、芸術的目線で洋服や靴も同じように見れると価値基準の幅が広がるなと。
あらゆるジャンルの壁を取り払い、一つの審美眼と一つの土俵の上であらゆるモノを見る事で
さらなる感性が高まるような、新しいセンスやファッションが生まれる気がします。
疑問と追及。
新時代、楽しんでいきましょう。
作品紹介は、来月あたりにCLOTHINGのほうで。
お楽しみに。
NAPOLI
ナポリのサルトにDeSoto Modelとして製作してもらった手縫いジャケット、
今回は既に完売しています。
また作るので買い逃した方は是非、次の機会に。
今日はナポリジャケットについて少し。
もともとはスミズーラといって英国で言う所のビスポーク、客と話しながら体を採寸し、そのたった一人のために好みの1着を仕上げる事を信仰としています。
今季DeSto Modelの製作を依頼したサルトも同様。
物心ついたころから針を手に、生き抜く術として技術を身に付けた生粋の職人たちが一針一針時間をかけて仕立てたモノ。
彼らが仕立てた服には手縫いがゆえの不完全さがあります。
マシンを用いて生産効率を高めた廉価版ナポリジャケットでは出せない味がある。
その不完全さは決して欠点ではなく、むしろ長所。
1着1着同じモノが仕上がる事は無いし、
職人の上機嫌も不機嫌も全て含めて、
一人の人生の50時間〜60時間を背負っているという事。
大量生産された服は何も語らないけど、
サルトリアの洋服には心がある。
職人のエネルギーが服に宿っているのです。
DeSoto Modelのジャケットはお客様からすると既製服という事になりますが、
私の立場から言わせてもらうと、
DeSotoの好みでDeSotoのためだけに全て手縫いで作られた紛れも無い本物のスミズーラジャケットです。
また良い生地探して作ってもらいますのでお楽しみに。
これも「高級」な世界ですね。
Artistic
最近、陶器を購入する機会が増えました。
年齢でしょうか?
個人的には「実用性のある芸術品」といった感じ。
実際食卓でも使えるし、棚に並んでるだけでもインテリアですよね。
モノによっては経年変化まで望めたり、作家の各々の作風や思想を楽しんだり。
最近はあらゆるモノに対してそういった芸術品としての見方に傾いてる気がします。
一線超えたところにいる人が人生を賭けて生み出したモノには、やはりアート的な要素がありますよね。
俗に芸術品と呼ばれるモノを購入する時、表に見えない部分にPAYする+αの部分があると思います。
作品を作った人のマインドであったり、センスであったり、人生そのものに惹かれたり。
そこを今とても重要視しています。
クラシックな世界でいうとナポリの丸縫い(全て手縫い)で仕立てられたジャケットや、一足一足、木型からたった一人のために作られるビスポークシューズなど、割と同じポジションで見れるんです。まさに実用性のある芸術品。
もしその製作者が死んでしまったらもう手に入らないモノ。
そういったモノ同士の組み合わせには何か不思議な要素が働き、ジャンルの垣根を超えて自然と調和する気がするのです。
ただ合うという感じではなくて、組み合わさった時に化学変化的な、高次元なセンスが生まれるというか。
ベタベタに当たり前な組み合わせも悪くはないけど、そこにはもう自分を高めてくれる新たな発見や刺激はありませんよね。
ファッション=ウェア。だけでなく、他分野からファッションに影響してくる感覚やセンスみたいなモノの重要性を意識していく必要があります。
それでは、今日はこの辺で。
Mercedes 190E
今日は、車について。
画像は自分が乗っている愛車「Mercedes Benz 190E」。
この車を初めて知ったのは、服業界の偉大な先輩がこの190Eに乗ってDeSotoを訪ねて来た時でした。
それまで、正直「ベンツ」には全く興味が無く、好きじゃないというよりかは何も知らない無知な状態。
"金持ちが乗るおきまりの車"みたいなイメージしか持っていませんでした。
が、その車を見た瞬間に「なんだこのセンスの良い車は!」と
一瞬にして現代の車にはないプレシャスを感じました。
パッと見の分かりやすい華やかさや高級感みたいなものではなくて、控えめの中にある本物感といいますか。
厚い鉄板で形成された端正なボディーライン、金庫の扉みたくズッシリと重量感のあるドア。
無駄の無いシンプルなグレートーンの内装に落ち着いた雰囲気のウッドパネル、時代を感じさせるチェックのファブリックシート。。。
それからというもの190Eが気になって気になって仕方なくなり、、、、、買いました。
この車をメルセデスが生み出した背景には世界を恐怖に陥れた第一次石油ショックが関係していて、
そうした背景の中でより良い車を作るべく試行錯誤して生み出した車なんだそう。
この車が80年代以降のメルセデスの土台となり多くのモデルへ反映されて行く事になるという、メルセデスの一時代を語る上で欠かせない特別な車なのです。
決して物作りをする上で有利な状況ではない時代に、
当時のメルセデスの社訓「最善か無か」という妥協なきモノ作りへの拘りを貫いた。
そして、その拘りが凝縮されたこの時代のメルセデスには現代の車が忘れてしまった何かが溢れまくっているというわけです。
妥協なき物作りは感動を生むって事ですね。何でも同じ。
直線的でデザイン性の高い美しいボディはイタリア人デザイナー「ブルーノ・サッコ」によるもの。
まさに乗っていると最善を尽くした完成度の高い車なんだと体感できます。デザイン性も実用性も。
乗れば乗るだけ惹かれていく。そんな車です。
純正のTechnicsのカセットデッキでJAZZを流しながら安全運転。
気持ちの余裕でしょうか。割り込みも気にならない。
ノスタルジーな内装とフロントガラス越しに見える景色はまさにプライスレス。
何気ない日常も特別な時間に変えていく。そんな作業が大事なのかもしれません。
今こうして記事を書いている間も、好きなジャズを聴き、好きな作家のカップでコーヒーを味わいながら、小指に光るお気に入りアーティストのゴールドリングに時々視線を落とす。
とても豊かな時間です。
一概に高級=高額ではないという事。
そして高級なモノを理解するには教育が必要という事。
そんな感じで今日は締めますか。
それでは、また。
